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三男也寸志の回想によれば、父の遺品にはSPレコードがあり、そのうち多くを占めていたのはストラヴィンスキーだったという。『火の鳥』(組曲版)と『ペトルーシュカ』を所有していたらしいが、演奏者などの詳細は不明である。
中国の北京を訪れた折胡適に会っている。胡適と検閲の問題などについて語り合った。
師・夏目漱石の葬儀の際に受付を務め、弔問に来た森鴎外の名刺を受け取っている。
子供の名前は、それぞれ親友の菊池寛の「寛」(長男:比呂志)、小穴隆一の「隆」(次男:多加志)、恒藤恭の「恭」(三男:也寸志)をもらって漢字を替えて名づけたもの。友情に厚かった芥川の人柄が偲ばれる。
子煩悩であったという。
「文芸家たらんとする諸君に与ふ」という小文において、数学や体操を勤勉に学ばなければよい文芸家にはなれないと述べている[1]。
黒澤明の『羅生門』(日本映画初のヴェネチア国際映画祭金獅子賞)は芥川の「藪の中」「羅生門」から題材を借りている。
「歯車」の内容から、晩年には自分自身のドッペルゲンガー(Doppelganger)を見たのではないか、また、偏頭痛あるいはその前兆症状である閃輝暗点を患っていたのではないか、という説がある。
煙草が大好きで、1日に180本も吸っていたという。
芥川は左翼、反軍的な自説を主張しており、実際にそのような作品も多数発表している。軍人の階級争いを「幼稚園児のお遊戯みたいだ」と自著で酷評したほどである。だが、当時は軍が著作物の検閲をするのが通常であったため、この検閲によって訂正・加筆・削除を余儀なくせざるをえなかった箇所も作品内にて多数存在する。
芥川は自著にて天照大神を登場させる際、別名の「大日?貴」(おおひるめむち)を用いた。これは「天照大神」と言う呼称では皇祖神をそのまま文中に登場させてしまう事になるため、太陽神、それも自然神という性格付けで「大日?貴」を用いなければならなかったためである。
[編集] 主な著作
老年 1914年
羅生門 1915年
鼻 1916年
芋粥 1916年
煙草と悪魔 1916年
戯作三昧 1917年
蜘蛛の糸 1918年
地獄変 1918年
邪宗門 1918年
魔術 1919年
蜜柑 1919年
舞踏会 1920年
秋 1920年
南京の基督 1920年
杜子春 1920年
アグニの神 1920年
藪の中 1921年
トロツコ 1922年
魚河岸 1922年
雛 1923年
漱石山房の冬 1923年
一塊の土 1923年
あばばばば 1923年
大導寺信輔の半生 1925年
玄鶴山房 1927年
侏儒の言葉 1927年
文芸的な、余りに文芸的な 1927年
河童 1927年
歯車 1927年
或阿呆の一生 1927年
西方の人 1927年
将軍
おぎん
おしの
犬と笛
浅草公園
誘惑
三つの宝
・猿蟹合戦
[編集] 家族
妻は海軍少佐・塚本能五郎の娘、文。
俳優の芥川比呂志は長男、作曲家の芥川也寸志は三男(次男の芥川多加志は最も文学志向が強かったが戦死)。
ファッションデザイナーの芥川貴之志[2]とメディアコーディネーターの芥川麻実子は孫。
ナレーターの芥川隆行は遠戚[要出典]。
[編集] 脚注・出典
^ 片野善一郎 『数学を愛した作家たち』 新潮社、2006年、15〜16頁。
^ 2007年8月15日放送「世界バリバリ★バリュー」、2008年4月20日放送「大胆MAP」より
[編集] 関連項目
芥川比呂志
芥川也寸志
芥川龍之介賞
短編小説
日本文学
[編集] 外部リンク
ウィキクォートに芥川龍之介に関する引用句集があります。ウィキブックスに芥川龍之介関連の教科書や解説書があります。芥川龍之介:作家事典:ほら貝
芥川 竜之介:作家別作品リスト(青空文庫)
芥川龍之介 作品リスト (近代デジタルライブラリー。往時の印刷状態のままに読める画像データ)
芥川龍之介のお墓
日本音声保存によるサイト
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E9%BE%8D%E4%B9%8B%E4%BB%8B" より作成
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 芥川
芥川龍之介賞
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芥川龍之介賞(あくたがわりゅうのすけしょう)は、純文学の新人に与えられる文学賞。通称は芥川賞。文藝春秋社内の日本文学振興会によって選考、授賞される。
大正時代を代表する小説家の一人芥川龍之介の業績を記念して、友人であった菊池寛が1935年に直木賞とともに創設し、以降年2回発表される。第二次世界大戦中の1945年から一時中断したが1949年に復活した。新人作家による発表済みの短編・中編作品が対象となり、選考委員の合議によって受賞作が決定される。受賞者には正賞として懐中時計、副賞として100万円(2008年現在)が授与され、受賞作は『文藝春秋』に掲載される。
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2007年現在の選考委員は池澤夏樹、石原慎太郎、小川洋子、川上弘美、黒井千次、高樹のぶ子、宮本輝、村上龍、山田詠美の9名。選考会は、料亭『新喜楽』の1階で行われる(直木賞選考会は2階)。受賞者の記者会見と、その一ヵ月後の授賞式はともに東京會舘で行なわれる。
目次 [非表示]ipo
1 成立
2 選考過程
3 選考基準
3.1 「新人」の基準
3.2 作品の長さ
3.3 直木賞との境界
4 批判
5 最年少・最年長受賞記録
6 歴代ベストセラー作品
7 太宰治の落選について SEM
8 受賞作一覧
8.1 第1回から第10回
8.2 第11回から第20回
8.3 第21回から第30回
8.4 第31回から第40回
8.5 第41回から第50回
8.6 第51回から第60回
8.7 第61回から第70回
8.8 第71回から第80回
8.9 第81回から第90回
8.10 第91回から第100回
8.11 第101回から第110回
8.12 第111回から第120回
8.13 第121回から第130回
8.14 第131回から
9 参考文献 モバイルSEO
10 脚注、出典
11 関連項目
12 外部リンク
[編集] 成立
芥川龍之介1934年、菊池寛は『文藝春秋』4月号(直木三十五追悼号)に掲載された連載コラム「話の屑籠」にて、この年の2月に死去した直木三十五、1927年に死去した芥川龍之介の名を冠した新人賞の構想を「まだ定まってはいない」としつつ明らかにした。1924年に菊池が『文藝春秋』を創刊して以来、芥川は毎号巻頭に「侏儒の言葉」を掲載し、直木もまた文壇ゴシップを寄せるなどして『文藝春秋』の発展に大きく寄与しており、両賞の設立は菊池のこれらの友人に対する思いに端を発している。また『文学界』の編集者であった川崎竹一の回想によれば、1934年に文藝春秋社が発行していた『文藝通信』において川崎がゴンクール賞やノーベル賞など海外の文学賞を紹介したついでに、日本でも権威のある文学賞を設立するべきだ、と書いた文章を菊池が読んだことも動機となっている[1]。このとき菊池は川崎に、文藝春秋社内ですぐに準備委員会および選考委員会を作るよう要請し、川崎や永井龍男らによって準備が進められた。同年中、『文藝春秋』1935年1月号において「芥川・直木賞宣言」が発表され、正式に両賞が設立された。設立当時から賞牌として懐中時計が贈られるとされており、当時の副賞は500円であった。芥川賞選考委員は芥川と親交があり、また文藝春秋とも関わりの深い作家として川端康成、佐藤春夫、山本有三、瀧井孝作ら11名があたることになった。SSL
芥川賞・直木賞は今でこそジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となっているが、設立当初は菊池が考えたほどには耳目を集めず、1935年の「話の屑籠」で菊池は「新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいいと思う」と不平をこぼしている[2]。1954年に受賞した吉行淳之介は、自身の受賞当時の芥川賞について「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と述べており[3]、1955年に受賞した遠藤周作も、当時は「ショウではなくてほんとに賞だった」と話題性の低さを言い表している[4]。遠藤によれば、授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なものだったという。転機となったのは1956年の石原慎太郎「太陽の季節」の受賞である。作品のセンセーショナルな内容や、学生作家であったことなどから大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーとなっただけでなく、「太陽族」という新語が生まれ、石原の髪型を真似た「慎太郎カット」が流行するなど「慎太郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした[5]。これ以降芥川賞・直木賞はジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となり、1957年に開高健、1958年に大江健三郎が受賞した頃には、新聞社だけでなくテレビ、ラジオ局からも取材が押し寄せ、また新作の掲載権をめぐって雑誌社が争うほどになっていた[6]。今日においても話題性の高さは変わらず、特に受賞者が学生作家であるような場合にはジャーナリズムに大きく取り上げられ、受賞作はしばしばベストセラーとなっている。
[編集] 選考過程